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スタンフォード大学

シリコンバレー発展の秘密をひも解くには、まずスタンフォード大学の歴史を知る必要がある。
スタンフォード大学は1891年、鉄道王リーランド・スタンフォードによって、16才で夭逝した息子を記念して設立された。この大学はスタンフォードの領地であったパロアルトの近郊に位置し、現在ではアメリカで最も高い評価を得ている名門大学のひとつとなっている。

スタンフォード大学

この地域における初期のハイテク産業の発展に最も重要な役割を果たしたのは、スタンフォードの卒業生でもあったフレデリック・ターマン教授である。1920年代、スタンフォードは大学としての地位を高めるために東海岸の大学から著明な人材を積極的に招聘していた。マサチューセッツ工科大学で電気工学を教えていたターマン教授はそうした人材の一人で、彼こそが後に「シリコンバレーの父」と呼ばれることになる人物である。ターマン教授は、スタンフォードの卒業生の多くが就職先を求めてこの地域を離れ、東海岸に移ってしまう当時の状況を危惧していた。そこで教授は学生たちに、大学の周辺で自ら事業を起こすことを奨めるようになった。そんな学生たちの中に、ウィリアム・ヒューレットとデイヴィッド・パッカードがいた。

ヒューレットはスタンフォード在籍中に音響発振器を製作した。この発振器が市場で成功するであろうことを確信したターマン教授は、東海岸に移ってゼネラル・エレクトリックに勤めていたパッカードに、パロアルトへ戻ってヒューレットと事業を興すことを勧めた。こうして1937年に、後に「シリコンバレー発祥の地」と呼ばれることになるパロアルトのガレージから、小さな会社がスタートした。ターマン教授の援助を得て商品化された音響発振器は、後に発展してウォルト・ディズニー・スタジオの1939年の映画「ファンタジア」の製作にも使用された。これが今日に至るヒューレット・パッカードの成功物語の第一歩だった。



現在のヒューレット・パッカード


同じころ、他にもこの地域の電子産業に重要な役割を果たす小さな会社を設立した学生たちがいた。1937年、物理学教授であるウィリアム・ハンセンはシガードとラッセルのヴァリアン兄弟と共に、超高周波の生成や増幅に使用される電子チューブ「クライストロン・チューブ」を開発した。第二次世界大戦のあいだ、ヴァリアン兄弟はスタンフォードの研究室を借り受け、クライストロン・チューブの研究を行っていた。ここでの研究から、後にレーダーやマイクロウェーブ放射などの発明が生まれたのである。スタンフォード大学は彼らに無償で研究室を提供したほか、100ドルの研究資材費用も支給した。その見返りとして、スタンフォードは研究の成果から得られた利益の一部を受けとる契約を交わした。ヴァリアン兄弟はその後ヴァリアン・アソシエイツを設立し、結果としてスタンフォード大学は彼らへの投資によって数百万ドルにも及ぶロイヤリティを受けとることとなった。

第二次世界大戦中、ターマン教授はワシントンで政界に豊富な人脈を作った。その後スタンフォードに戻った教授は、その人脈を活かして政府から大学や地元企業に多くの事業がもたらされるよう計らった。50年代には、スタンフォード自体も大学として多くの画期的な活動を行っていた。その一つとして、新たに設立された企業に設備を提供する「スタンフォード工業団地」の建設があった。戦後の成長期にあってより多くの資金を必要としていたスタンフォードは、資金捻出のために3240ヘクタールにもおよぶ広大な所有地を利用することを考案した。創設者リーランド・スタンフォードは所有地の売却を一切禁じていたため、大学は所有地を長期間リースするというアイディアに行き着いた。企業にとっても事業に協力的な大学を近くに控えた土地の長期リースは魅力的であったため、ヴァリアン・アソシエイツを皮切りにゼネラル・エレクトリック、イーストマン・コダックなどが次々とこの土地に進出してきた。

50年代には航空、宇宙、電子の分野における国防プログラムによって、シリコンバレーの産業は大きく成長した。スタンフォード大学はこの間にも企業と良好な関係を築いているが、その良い例の一つはロックヒード・エアロスペース社である。同社は1956年にスタンフォード工業団地に移転し、その翌年にはサニーヴェイルに移ったが、同社はスタンフォードが新たに航空学部を設立した際に援助を行い、その見返りとして大学側は科学的なアドバイスや従業員のトレーニングを提供した。その後もIBM、NASA、Xeroxなどの研究部門が次々とこの地域に移転してきた。
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