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シリコンの登場


スタンフォード出身でベル研究所に在籍するウィリアム・ショックリー博士は、ジョン・バーディーンやウォルター・ブラッタンと共同で、半導体によって電流が増幅される作用を応用したトランジスタを開発していた。トランジスタの基本概念は、シリコンを用いてある部分を導体とし、隣接する部分を絶縁体とすることによって、そこを通る電流を任意にコントロールしようとするものであった。この原理の応用によって誕生したのが「半導体」である。当時は音声の増幅や電子回路のスイッチ操作など、様々な電流の制御を行うために真空管が使用されていたが、信頼性の面で真空管は十分なものではなかった。トランジスタは来るべきハイテク時代においてこうした重要な役割を担うものになると期待されていた。

1955年、ショックリー博士はショックリー・トランジスタを設立した。しかし同社内では、半導体の素材としてシリコンとゲルマニウムのどちらを採用するかについてエンジニアたちの意見が激しく対立した。ショックリーはゲルマニウムの使用を強力に推し進めたが、エンジニアのゴードン・ムーアらはシリコンがより優れた素材であると考えていた。結果的に彼らは、意見が対立したショックリーのもとを1957年に去ることとなった。

かつてショックリー・トランジスタで働いていたロバート・ノイスは1958年、ショックリーを離れたムーアら7人のエンジニアと共にマウンテンビューでフェアチャイルド・セミコンダクター社を設立した。フェアチャイルド社は、シリコンチップ上に刻まれた膨大な数の電子スイッチ機能を持つ極小サイズのチップ、つまり今日の集積回路を初めて量産することに成功した。フェアチャイルド社はシリコンによる半導体を専門的に製造した最初の企業であり、後にはカリフォルニアの電子業界で最大規模の企業にまで発展した。また、同社はインテルやシグネティクス(現在のフィリップス・セミコンダクター)、ナショナル・セミコンダクター、AMDなどの出発点となった企業であり、シリコンバレーにおける半導体産業の基礎を形作った企業でもある。

 


ゴードン・ムーア
   
60年代の半導体産業ではカスタマイズされた少量生産のチップが主流だったが、こうしたチップの生産にはコスト高という欠点があった。そのため、70年代にはメモリ(DRAM)の需要の増大とも相まって、チップの規格化という新しいビジネスが誕生した。ムーアとノイスは10年間在籍したフェアチャイルド社を離れ、ベンチャー・キャピタリストのアーサー・ロックの支援を得てインテルを設立した。初期のインテルは、シリコン上にいかに多くの回路を搭載できるかを探究し続けていた。1970年には1kのDRAMチップを市場に投入し、1974年には4k DRAMを開発した。1979年には16の企業(うち5社は日本の企業)が16k DRAMの価格競争にしのぎを削っていた。こうしてインテルの集積回路(チップ)は急速に業界標準として浸透していった。

インテルは1973年に8088 CPUを発表した。このCPUはコンピュータの動作の基礎となる単純な「オン/オフ」スイッチを数百万、後には数十億も実行することを可能にした。このマイクロプロセッサはハイテク業界に大きな変革をもたらし、20世紀後半の世界を形作った多くの発明の基として記念されるべき製品であった。


インテル


しかし、1975年には他の多くの企業が同様のチップをより安く製造することができるようになっていた。8088チップの価格は1975年には110ドルだったが、チップの標準化や生産量の増大によって1977年には20ドル、さらに1980年には8ドルにまで下落した。この時期、半導体の生産は専門的なシステムから大量生産方式へと移行していったが、シリコンバレーの半導体業界は自らの独特なコミュニティが持つ利点を有効に活用せず、旧来の縦割り型の大量生産を行っていた。企業はデザイン部門と開発部門を分け隔て、顧客が求めている製品の探究を怠っていた。結果として、1986年にはメモリーチップの市場は日本の企業に支配され、シリコンバレーの半導体産業は大きく落ち込んでいった。日本企業は自動車産業や鉄鋼産業と同様に、半導体産業でも生産システムを飛躍的に改善し、顧客との良好な関係を築くことに成功していた。また、製造工場の多くがより安価な労働力を得られる国に移設されていったことも、シリコンバレーの落ち込みの大きな原因であった。


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