BIを活用するうえで、どこまでデータドリブンを目指すのか


唐突ですが、初めに断っておくと、東京オリンピック開催の是非や、非常事態宣言の是非について論じるつもりはありません。そういう場ではないので。

では、なぜ唐突にそういう話題を持ち出したかというと、データアナリティクスの観点から、政府の発表する判断基準にこれまで少し興味深い傾向が見られたので、良し悪しは別にして、少し考察を試みます。

単純に言ってしまうと、data-driven(データドリブン)ではないのに、データにこだわっているところが興味深いなと思いました。

ビジネスインテリジェンス(BI)が各方面に普及し、ビジネスのさまざまな局面でデータがダッシュボード上で可視化され、意思決定の基準とされるようになって久しいですが、その「基準」の定義は曖昧です。あくまで参考にする程度から、data-informed(データインフォームド)レベル、そして完全なデータドリブン体制が確立されている企業まで、いろいろあるようです。

ビジネスインテリジェンスを導入する上での究極の目標はデータドリブンを確立することです。しかし、完全にデータドリブンになるまでの道はけっこう険しくて、100%は無理なんじゃないかという気がします。もし100%なら、すべてAIに決めてもらった方が、必ず良い結果につながることになります。

そうなれないのは、そもそもデータが正しいのか?と言ってしまうと身も蓋もないですが、データが正しいことを基本的な大前提としながらも、100%完全無欠に正しいのか?という疑問があります。たとえば、ソースデータは完全に正しくても、その用意の仕方や仕分け方に、正しいとか間違っているとかではなく、その担当者ごとに微妙なセンスの違いが含まれていないとも限りません。仮にそこもすべてAIでやるとしても、そのAIの設置方法に、担当者ごとに微妙なさじ加減の違いが混じる可能性は否定できません。つまり、いずれかのレベルでは必ず人の手が加わらなければならないので、データの純度を追求したらきりがありません。

言い換えると、人為的な差異の可能性を極力小さくするための体系がより整備されている組織は、よりデータドリブンになることができ、人への依存度が高い組織は、データはあくまで参考程度にとどめることになります。

冒頭に触れた、日本政府のコロナ対策に戻ると、データを駆使しながらもデータドリブンは目指していない、もしくは、目指している人と目指していない人が組織内に混在している可能性があります。もっと穿った見方をすると、そもそもデータドリブンの概念がないのにそういうトレンドに乗せられている可能性すら、部外者からは感じられます。

たとえば、非常事態宣言を終了するタイミングはこれまでずっとdata-drivenではなくdate-driven(日程ベース)です。それが良いか悪いかは別にして、判断基準に見えなくもないデータとともにデータドリブンではない判断を提示すると、提示された側に戸惑いが生じます。提示に関しては、メディアの問題なのかもしれません。

いずれにしろ、データアナリティクスを採用した企業がどこまでデータドリブンを目指すのか、あらためて見つめなおす良い機会を提示してくれていると思います。最後は人間が判断しなければならない状況で、どこまで体系的で自動的な意思決定プロセスを確立するのか。人の介入をなるべく排除するのが正しいのではなくて、人が介入する理由をきちんと整理確認し、それが理に適っているのなら、人が介入する仕組みも体系的なプロセスの中に組み込むべきです。暗黙の了解で人が介入するようなことは絶対に避けなければなりません。それができないと、データアナリティクスの効果がビジネスに反映されなくなります。

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